珈琲オンボロ倉庫

コーヒー 音楽 ときどき 思考

75記事目。

こんばんは、戌吉です。

1月の末にブログを書き始めて,もう少しで3カ月 が経とうとしています。

赴くままに記事を書いてきて今回の記事で75記事目です。

 

キリがいいような気もしますが,といって特別何かがあるわけでもありませんが,75回目はとりあえず思ったことを日記的に書き綴ろうかと思います。文字ばかりです。

 

 

 

最近珈琲の焙煎がうまくいったりいかなかったり、うまくいってるのかどうかも分からないときもあったり、悩ましい日々を過ごしています。

 

たぶんやり始めたころは、それなりに珈琲の味が出ただけでも美味しいと思うようになっていて、それを錯覚と呼ぶこともできるのかもしれませんが、だんだん完成度の求めるレベルが高くなっていくんだと思います。月並みな現象ですが。なっているんです。今うまくいってないと思う珈琲を、手網焙煎していない頃に飲んだとしたら、ふつうに美味しいと思うでしょう。

 

 一度知識をつけてしまったら,無心に飲むことはなかなか難しくなる。そんな中で(コーヒーを飲むことに関して)無心になれる方法は「ながら」だと思う。本を読みながら,運転しながら,誰かと話しながら,ブログを書きながら・・・コーヒーの楽しみ方というのはそういうものだという意見も少なくないように思います。

 

あんまりコーヒーの味に意識を持っていきすぎると,何がなんだか分からなくなってきます。一口目は苦みがあるな,と思ったコーヒーでも4口目くらいになると,酸味が強く感じられたり(温度の影響はあると思いますがそれを考えても)。あるときは心地いいと感じた華やかな香りも,別の日に飲んだら野に咲く花を摩って飲んでるような気分になったり(同じ豆でも)。

 

たとえば,同じ音楽を聴いても,泣く程感動する時とあっさり流れていく時があります(ありますよね?)。味覚も同じなのかなと。お腹が空いている状態と満腹の状態で食べると,(感覚的に感じる)味が違うのはよくある話だと思いますし。そのほかにも,気分とか,気温とか,天気とか,気圧とか,数えきれない何かが少しづつ影響しているのかなと思います。

 

 

 

作家・五木寛之さんの小説で「親鸞」がありますが,師である法然上人が「愚に返れ」「ただ一心に念仏せよ」と言うのに親鸞は共感しつつも,一度知識をつけてしまった身が愚に返ることは容易ではないと五木さんの描く親鸞は考えます。そして年をとって老いると,わざわざ愚に返ろうとしなくても自然に愚に返っているではないかと実感する。

 

これはなかなか深い話だと思いました。6巻に渡る長編なので,色んなことが盛りだくさんな小説でしたが。色々なことに悩んで,頭を使って解決しようとする期間というのが,若いうちはあるんだという,一種の誰もが通る道みたいなものを示しているような気もします。「若いうちは多い」というほうがより正しいでしょうか。

 

五木さんご自身ももう高齢で,自分の体験も踏まえて,「親鸞」という小説に盛り込んだのかなあなどと考えたりもします。

 

なんでコーヒーの話で突然浄土真宗が出てきたのかはわかりませんが,なにか通じる部分はある・・・かも。ないかも。

 

 

 

なんの話かわからなくなってきましたが,無心に飲んでいる時の美味しい美味しくないという感情は大事にしたいなということです。あと味を気にしすぎていて素直にコーヒの味が楽しめない時でも,豆を挽いてカップに淹れるという作業自体が楽しいという事実があるので,コーヒーはなかなかやめられません。

 

客観的に物事を見ることも大事な場面はありますが,僕自身は主観のほうを重きに置いた方がいいと最近は思っています。

 

自分で感じること。

 

どっかのすごい人が美味しいと言った。有名な本にこの豆はこんな味だと書いていた。そんな情報があふれかえる時代だからこそ,自分の感覚と照合して,ああ確かに自分もそう感じるな。いや俺はよくわからないな。そういう感覚を大事にしたいと思いつつある今日この頃です。