歴史を学ぶうえで忘れてはいけない重要なこと
戌吉です。
僕たちは歴史を小学校の時から学んできました。
なんだか歴史は特別な物語のような感じもするし,
ただテストのために暗記したりもします。
しかし歴史をそんな風に扱っていること自体について考えたことはありますか?
その歴史という物語が,過去にあった絶対に正しい出来事だと思って頭に入れることは果たして健全でしょうか?
歴史は特別な物語ではない
でも歴史は特別ではない。
〇年に〇〇戦争が起こった。〇年に〇〇幕府が始まった。
なんか特別な感じがしますよね??
当時の歴史に線引きはない。
すべては成り行きだと思う。
誰かが実権を握ろうとすれば,妬むものが出てくる。
妬む感情が勢力を増して自分の権力欲を満たすがために泥沼の陰謀をたくらむ。
そこに居合わせた人からすれば決して綺麗な物語なんかじゃあない。
そして争いに直接関わっていない農村の人々も含めて,それぞれが一人の人間としての心をもって生きている。楽しい嬉しいつらい苦しい。
昔が特別だと思いがちだがそうではないと思う。
歴史はあくまで現在の人が作り出した物語
歴史から学ぶことはあると思う。でも歴史の年表は,あくまで「今」の人間が残された史料の整合性をとって作り上げた物語にすぎない。そのことは,忘れていないほうが健全である気がする。
教科書や参考書に載っていて偉い人が言っていたから,絶対その出来事は正しい,じゃない。
残された史料からおそらくそんな人物がいたようだ。この目では見ていないけど,いくつかの史料の中では矛盾がなく,その存在を推測できるだろう。
ということを最近の歴史学者が調べ,偉い人たちの間で認められ,それを本やメディアを通じて僕は知った。
そういうことを意識しておくのは大事なことだと思います。
学ぶべき答えは,最終的には「今」にしかない
どんな物語や文献が現在「歴史」としてあろうと,本当に大事な人間的成長は現在からしか得られないと思います。「般若心経」というお経が残されているけど,そこに書かれている意味を紐解き,正しい意味を議論すること自体は重要ではなくて,それが本当にそうだなあ,救われた,ありがたいと思えることこそ重要ではないかと思います。たとえ今最も有力な「正しい考え」とは違ったとしても。
〇〇武将の〇〇戦略を,これいいなあ! と思い実践してみて,ああ助かった。と思えてそこで初めて歴史の意味があるんじゃないかと思います。
あるとき親鸞上人がいないのではないかという問題が挙がったことがあるようです。
しかし「いたか,いなかったか」が重要ではなくて「親鸞を学んでいく自分のストーリー」の中でありがたいと思える思想を気付けたか,ということのほうに重きを置くべきではないでしょうか。
そんなことを頭のどっかにおきながら,歴史とはふれあいたいものですね。
お読みくださった方は,ありがとうございました。
※個人的な意見です。あくまで歴史に詳しくはありません。