『遺言』が教えてくれた意識というもの
こんばんは。ddkongaです。
悩むことがあると,どうしても根本まで理解しようとてしまいます。
行きつくところまでいくと,人間の意識ってなんなんだろうという疑問が湧いてくる。
それがすべての悩みの根本でないとも思いますが,近づいている部分はあると思います。
そんなこんな考えている中で,養老孟子さんの『遺言』(新潮新書)という本に出会いました。
わからないことがあると,まるでその問いのヒントを示してくれるように本と出会うことがあります。僕にとって本は,そういうものであることが多いような気がします。ありがたき縁,としみじみ思います。
引き込まれるようにして読んだ後,今までごちゃごちゃとしていた頭の中が整理されたような気がしました。
本の内容を僕なりの解釈でまとめてみると,
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ヒトの意識は,自分自身に害をもたらすことがある。
(害というのは,過去の後悔や不安から起こる否定的な未来について,現在目の前で起こっているわけでもないのにいつまでもそれに囚われて考え,悩んでしまうことである,など人それぞれにあると思いますが僕の場合はそんな感じだと思っています)
現代社会は動物的・自然的な部分を排除した(あるいはそうしようと進行している)意識中心の社会である。
そのことを「意識」しておくことで,意識のもたらす害をできるだけ軽減しようではないかということを提案している。
それを「意識」するための考え方について,ヒトの意識は「同じにする」という機能の下に成り立っている,ということを主題に各章で多面的に説明している。
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とこんな風です。
自分の見たもの・感じたことがすべて,という動物的な在り方が,意識に支配されないためのカギになりうる。
将来のことを不安に思っている「今」は,何なんだ?意味のないものなのか?
いや,意識で考えれば不安でしかない未来を抱えている「今」こそ「生きて,在る」ではないか。
そう思うと意識だけどこか違う次元に飛んで行き,「今ここに存在する動物的な身体」について何も焦点が合っていないとわかった。動物的な自分の身体が可哀そうだと思えてきました。
そこに意識というものに関する理解というか,整理が多少ついたような気がします。
意識は「今」起こった外部の出来事を無視しており,ここに在る身体で感知したものと別次元のものである。
例えば夜に茂みから物音がして,そこから「なにかいるのかも」と連想することは外部の出来事を無視していないように思えますが,その意識が連想している「今」は,物音はしていません。身構える行為は本能だと思いますが,いるかどうかも分からないのにいつまでもいるような気がして不安なのは意識の働きだと僕は思います。
と,なんとなくですが頭の中がすっきりした気分になしました。
とはいえ意識を人間から取り去ることは不可能ですし,それが人間の「業」ともいえるし,それが幸せをもたらすものにもなりうるとも思うので,意識というものを「意識」しておくことが重要なのかなと思います。
僕が書いた文章は感想も交えていますし,説明しきれていないことや勝手な解釈も多いのでぜひ養老孟子さんの『遺言』という本を読んでみることをおすすめしたいです。