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言葉じゃない

「言葉では伝わらないものがある」とか,「背中を見て学べ」とかいうかいう格言は,そろそろ月並みなものになりつつあってあまり心に届かない。

現代では言葉というものが,洪水のように氾濫している。スマホやテレビ,雑誌や新聞,そして日常における会話など普通に生活していると,嫌でも言葉が耳や目から流れ込んでくる。

そんな背景もあってか言葉の威力というか,その人の心の乗った言葉が耳に入りづらくなっているように思う。

 

 

先日ブログにも書いた,養老孟子さんの『遺言』という本で言葉に対する自分の考え方が変わりつつあるような気がします。そもそも言葉がないゼロの状態から言葉(または文字)を生み出すとすれば,それはあくまで記号であるだろうし,仮に梅干しという記号を「O<<」と決めたとすれば,最初のうちにそれを見て唾液腺が刺激されるということなんてないでしょう。

要するに脳が複雑化していった。文明の発達を伴いながら。記号化するという能力が生まれた時点で,そうなることは必然であったかもしれない。

 

しかしいいことだらけではないのが現実だろう。ものごとには天使と悪魔がいるというのも,月並みな表現ではあるが確かであるような気がする。言葉における天使を文明の発達による諸恩恵。だとすれば,悪魔は?? 僕の場合は,固定観念とか妄想だと思っています。妄想は頭の中でぐるぐると言葉が回る。いわゆる常識的な当たり前も,言葉によるルールとか慣習からだと思います。それらにとらわれることこそ悪魔の部分だと思っています。

 

そして最近よくよく大切だなと思う考え方が,「言葉じゃない」ということです。その考え方自体言葉なので難しい部分はありますが,要するに自分の五感で受け取ったことこそ自分にとっての事実であり,言葉は後づけ。知覚を記号にしたものにすぎないという考え方が重要であるような気がしてなりません。そしてそこに何らかの幸せーいわゆる「幸せな家庭」とかの類ではなくーがあるんじゃないかなと思います。

 

「自分の目で見たものが全て」というのも月並みな格言ですが,目だけじゃない。まあわかりやすく目に絞ったのかもしれませんが,「自らの五感で感じたこと→言葉」という前提を心がけをしていきたいものです。内的問題解決の一助として。