『eye』世界は小さいか【indigo la end】
「遠くに来たけど,なんかそんな感じしない」
という思いを抱いたことがある人は少なからずいると勝手に想像しています。
僕はあります。戌吉です。
最近,僕はヒトを人間的意識と動物的な身体とに二分する考え方が
自分を納得するうえで便利だと思っています。↓
そんなことを言いながら今日はindigo la end の曲『eye』の歌詞から考える話です。
人間と動物,意識と身体。そういう考え方に立って物事を眺めてみると,今までと違った見え方ができることがあります。『eye』の歌詞の中に
初めて見た世界は
丸くって
大きかった
ヨボヨボのおじいさんが言った
「意外と小さいでしょう」
記憶と夢の境の話
という一節があります。
僕自身,まさに世界は意外と小さいじゃないかと思っていた経験があり,(外国に行ったこともないのに)非常に突き刺さる歌詞でした。
以下は非常に勝手な僕の解釈です。
・・・・
小さい子供のころは,頭の中の知識が少ない。「自分の目で見たものがすべて」という動物的感覚をまだ持っている。しかし大人になって知識が頭を占領してくると,あたかも「すべてを知ってしまった」かのように思ってしまう。本やインターネットで得た知識だけで,自分の目で見たわけでもないのに。
現地に行ったって目に映るのは同じ光景だよ?
いやいや,他の四感は働いていない。視覚にしたって,その画面と同じように自分の視覚には映らないはず。第一エネルギーを使っていない。遠くへ行くにはエネルギーがいるのが動物的現実の世界である。意識の中の世界は,意識の中でエネルギーゼロでどこへでも行ける。
そしてたとえ実際に行ったとしてもおおかた飛行機。使ったエネルギーは
家→車,車→飛行機,飛行機→現地 ×2
の数千歩でしょうか?家からじゃ他県にも出られない。
動物的な自分の真実は,本当はそれだけなんです。
数万キロを移動したことを実感する時は,途方もない時間とエネルギーを費やしたときでしょう。僕自身,200kmくらい歩いたことがありますが,「意外と近い」なんて思いませんでしたし。
だから「世界は小さい」とヨボヨボ爺さんは思ってしまった。
・・・・
長い。
こんな風に思って川谷絵音さんが作詞したとは思いませんが,この曲のタイトルが『eye』であることや
自分の目で見たものを僕は信じて生きていく
というフレーズがあることからも,そういう解釈をしてしまいます。
イチイチそんなことを考えながら生きてもいられませんが,文明の発達とともに立ち止まって考えるのは動物的自分がもたらした必然であるようにも思います。
そう思うと, indigo の『楽園』のフレーズもいいな~
「あらあら,まだそんなところにいたんですか。
早く進んでもらわないと困りますよ。」
言われなくたってわかってるよ。
でも本当にこれで良いのかな
この曲もイマイチ理解できない部分はありますが,
まあなんにせよ川谷さんリスペクトです。
めんどくさい文章を最後までお読みくださった方は,
本当にありがとうございました。。