ランナーズハイとセロトニン
昨日、1ヶ月ぶりに走りました。
戌吉です。
やっぱり、動かしたい時に体を動かすのは気持ちがいいですね。
ランナーズハイと幸せ物質
ランナーズハイという言葉。
中学生くらいのときに、保健体育で習うと思います。長距離を走っていると、しばらくすると苦しくなくなってくる現象。
別名、セカンドウインド。
ほんとにそんなものあるのか??
その存在を知ってから十数年間、僕はこの現象の存在には疑問がありました。部活でやっていた陸上の専門は跳躍でしたが、趣味で長距離を走っていましたし、陸上をやめた後も走っていましたが、実際、体感できなかったからです。
それでも走るのをやめなかったのは、体を動かす爽快感のためでしょう。
また、幸福物質とも呼ばれるセロトニン。同じ動きを繰り返す、単調運動を行っていると分泌されるという説があります。こちらも存在には、んん??と思うところがありました。
個人的な意見ですが、これとランナーズハイは、似た作用があると思っています。
というのも、自分の話に戻ると、この十年と少しの間、ウォーキングでもランニングでも、「ハイになっている」とか、「幸せ感」とか、「慣れ」とかいうものを、どうも自分では感じとることができないでいました。
その背景のひとつには、競技力の向上のために「常に考えながら歩く、または走る」を実行した結果が大きいと自負していますが・・・
そんなこんなゆえに「ランナーズハイ」や「セロトニンの分泌」には疑問符しかなかったのです。
が、ここ1ヶ月くらいの話、たまに歩いたり走ったりしていると、全然しんどくない、むしろ楽しいという感覚が何度かあったのです。
これは自分にとっては大きな変化で、少し驚いています。
苦しくない状態が訪れると同時に、なんとも言えぬ「良い気分」になったような気がしました。
・・・言葉だけの表現だとすごくドMな感じですが、決してそんなことはありません。
ここに、ランナーズハイとセロトニンの分泌の共存をみたわけです。
逆に言えば、ランナーズハイ(あるいはウォーキングハイ)になるくらい単調運動を続けないと、セロトニンの分泌は行われないんじゃないかと思ったのです。
ハイ・慣れ・同じ毎日
単調な作業に多少なりともそういう「ハイ」な状態が訪れるのはいいことだと思います。
これについて、運動だけの話に限ったことではなくて、仕事や生活でも「ハイ」な状態に知らずのうちになっているような気がします。
多少なりとも幸せ物質的なものが分泌されていなければ、どうして毎日(人によっては)行きたいとも思っていない場所に通い詰めることができるでしょうか。
「単調作業としての仕事」と「同じ場所に同じ時間に通う」という意味で、日常でもセロトニンが(薄く、長く)分泌されている可能性を僕は考えます。(あくまで仕事現場が非日常な局面でない限りの話ですが・・・)
「慣れ」というのは、最近はあまりいい意味で使われないことが多い気がしますが、「慣れ」と「ハイ」は違うようで、実は似たことなんじゃないかと思います。
僕の最近の持論では、「同じような毎日の繰り返し」は嫌われがちな生活感ですが、これは長期的なランナーズハイだと思っています。(この場合なら、ライフハイ??なのか?)
人間は慣れとか慣性を好むと最近は思うんですが、たまに刺激を入れてやる限り、「同じような毎日」はむしろ良いものなんじゃないかと思ったりします。
「 常に新しいものを」な時代なのでそんな悠長なことを言っていられないという声が聞こえてきそうです。
まあ、あくまで社会的な話はその通りなんですが、個人的なレベルの話では、「慣れ」というのは日常を過ごすうえで大事なことのように思います。
まとめ
話が大きくなりすぎましたが、ランナーズハイの訪れとセロトニンの分泌のタイミングは、重なっている部分が大きいんじゃないかということでした。
走っている時に色々と考えすぎると、その効果も体感できない経験があるので、無心(に近い)状態で走れればいいですね。
人間は慣性を好む、とか本文中で言いましたが、考えてみれば当然の話で、農業中心の時代を想像してみれば非日常的な天候は、好ましくないですよね。
でも、洪水によって土壌が肥沃さを取り戻すということを考えると、稀な非日常も必要だという話になってきます。
なんか、うまいようになっているなあと思います。
まあ、楽しければなんでもいいですね(適当)