無駄な力を抜く考え方と力みについて
こんばんは、戌吉です。
唐突ですが、今までの人生、力んでいた時間のほうが多かった気がします。
小学校のとき、授業で100m走をした際、先生から「力が入りすぎや」と言われたことを、今でも鮮明に覚えています。
陸上をした中学でも、高校でも同じことを言われ、ボートをした大学でも同じことを言われた。
もう「おれは力む星のもとに生まれたんだろう」と開き直り、力んでも良いから全力を出す、という考えに至ったこともありました。
力むタイプの人種という考え方が変わったわけではありませんが、ここまで力んできた人生で、ここ数年で二度の挫折を味わいました。
具体的な話はしません。
恥ずかしいから。
絶望にくれたこともあります。
が、そんなこんなやってきて、最近、やっと人生の上昇局面に差し掛かったのかなと勝手に感じでいるのですが(あくまで、精神的に)力が入ってない状態とはどういうことかを、少し分かることがあります。
何もしてないときは、力はゼロ。何かしようとして、最小限必要な力を発揮するのだ、と。
そう簡単に上手くはいきませんが、この「何かしようとして」という部分が、無駄な力の入るか否かにすごく関わっていると思うんです。
ここで、無駄な力とは?と思う方もいるかもしれませんが、まあ、肩に力が入ってるとか、そういうもんです。
動作の滑らかさを阻害する力み、です。
別にあってもいいじゃない?と思う方もおられるかもしれませんが、僕は、これは精神的な苦しみに直結してると考えています。
原因か結果(力み)か、どちらが先かはわかりませんが。
ここで、バンブの『モーターサイクル』ですね。
「始まりを考えても意味がな
借りてきた答えしか出てこない」
いかんいかん脱線する。
無駄な力が入っていないといえば、「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音さんの立ち居ふるまいは、とてもお手本になると思っています。
余計な力を感じません。
川谷さんの親友(?)の米津玄師さんもそうとう力みがないですが、この点だと川谷さんのほうが力みがないと思います。勝手に。
彼らは、力まない、それでこそ存在感があるんだと思っています。
生れた時から、力まない動きを知ってる人もいる。
一方で、無駄な動きによる力みの果てに、力まないことを知る人間もいるんじゃあないかと、希望を抱いています。
この場合、最初の力みは無駄でなく有意になるから、無駄というのもまた奥が深いんですけどね。(また脱線する・・)
力まない動きには、それ相応の体の動かし方や筋肉の使い方、はたまた思想があると思います。
付け焼き刃ではいかない。
それらの歯車が上手く噛み合うかどうか。
結局は、私淑する五木寛之さんの言うところの、「他力」なのかもしれませんが。
ともあれ、
何かをしようとして、そのための最小限の力を発揮する。
これが現段階での、「力まないこと」についてのぼくの答えです。