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「お疲れ様です」という挨拶に抱いた最初の違和感

こんばんは,戌吉です。

今日も皆さまお疲れ様です。

少々めんどくさい文章になりましたが,お付き合いいただければ幸いです。 

というか嬉しいです。

 

 

「お疲れ様です。」

とりあえず挨拶はそう言っておけばいいみたいな風潮を,大学の部活動に入って初めて経験したのですが,最初はものすごい違和感を感じたのを覚えています。

今回はそんな一つの挨拶について。

 

 

疲れてないんですけど・・・

部活動が夕方から始まる。

開始前に集合してとりあえず「お疲れ様でーす。」

お疲れ様です?いや疲れてないんですけど・・・

 

という気持ちしかありませんでした。

 

まあ,郷に入りては郷に従えで,何となくそんな挨拶を返して,結局はそれに馴染んでしまったわけですが,挨拶だからって何でもいいわけではないでしょう。というひねくれたような気持ちはまだ心にはあります。

 

さすがに社会に出てからは,いつでもかんでも「お疲れ様です」はなくなりましたが,やはり今日初めて会ったわけでもなく,しかしなんか挨拶はしておきたいときとかは,どうしても「お疲れ様です」という挨拶が無難になってきます。

 

そもそもなぜ「お疲れ様」なのでしょうか?

 

 

とりあえず「お疲れ様」3パターン

今日も一日お疲れ様

 

どういった場合に「お疲れ様です」が自然かを考えたら,

相手が「疲れているだろう」という認識のもと,労わる気持ちも込めて「お疲れ様です」の挨拶。

これは自然だと思います。

 

今日こなすべきすべての作業が終わった後に,「今日もみんなよく頑張った!」という気持ちでの挨拶は,たしかに言葉の意味も踏襲した上でのコミュニケーションツールとしての挨拶で,なんら違和感を感じません。

これが「お疲れ様です」の最も自然な使い方だと,勝手に僕は思っています。

 

 

仕事の途中

 

そこまで親しくはないけど,顔は知ってるという人とすれ違ったときの「お疲れ様です」。という感じですかね?

この時間までやってきた仕事に対して「お疲れ」という気持ちがあるのは自然で,この後も仕事があって疲れますよね,と思うのもまあ違和感はありません。

 

かつ「こんにちは。」なんて挨拶もちょっとかしこまりすぎている。

うーん,じゃあこれも別にそんなに変な使い方をしてるわけではないか。

 

 

出会って最初の「お疲れ様です」

 

相手を疲れていると認識するから「お疲れ様です」。

この視点から考えれば,相手の事情を特に深く考えていない限り,出会って最初の挨拶にはおかしいと感じるのが自然な解釈だと思います。

 

ではどういった経緯でこの状況下で使われるようになったのか。

例えば,僕が初めて違和感を感じた大学において,自然なパターンを考えてみると,部活動の集合前に「お疲れ様でーす」の一言。この状況でこの言葉を発するということは,相手がそれ以前に疲れているという認識を持っているわけです。

 

それ以前にあることと言えば,講義かバイトくらいなものでしょう。まあ相手のスケジュールをすべて把握してるわけでもなく(こわい),それらがあっただろうという勝手な想像の下,かつそれによって相手が疲れているという勝手な認識の下,「お疲れ様です」と発せられる。

 

なるほど,今からこの集団で始まることの前に,別の集団でも疲れることがあったんだと,知らないけどたぶんそうだろうと思っているわけですね。

大学生じゃなくても,家族というコミュニティでの家事育児などに置き換えることはできると思います。

 

なるほど,そりゃあ疲れてないときに疲れてると認識されていれば,違和感も感じますわ。あの違和感はそういうことだったのか。ふむ

 

まあこれには保険の部分があるとは思います。そう言っておけば差支えないだろうと。人は,暇だと思われるより,忙しいと思われているほうが心地いいものだと,僕はそう思いますし,多くの人はそうなんじゃないかと勝手に思っています。

 

 

人生は苦労の連続

「疲れている」と認識するから「お疲れ様です」。

色んな要素はあると思いますが,少なくとも,このようにこの挨拶の意味を解釈するのは大きな的外れではないように思います。

 

そして違和感の正体は「相手が疲れているだろうという勝手な認識」だということがわかりました。(とりあえず自己完結)

 

 ・・なんだかとりとめのない話になってきましたが,こうやって考えてきて一つ気付くことには,

 

常に疲れてんじゃん

 

ということです。

 

あくまで自分の勝手な想像と認識の上でですが,少なくとも自分が疲れていると感じているという部分はあると思いますし,そう言っておけば挨拶として差支えないというのも分かる気がします。

 

 

しかし,労わりの気持ちがその挨拶に包含されていたとすれば,本当に疲れている時にかけてくれる「お疲れ様」は,何とも励まされる気分になります。

 

人生は疲れるものだ,だけどこの苦しい時代を共にがんばっていこう

 

そんな想いが,一つの挨拶の裏にあるのかもしれません。

そう考えると,挨拶ってすばらしい。

 

・・・過大解釈???