「腹が減っては戦はできぬ」から考える、食べるということ
最近食欲旺盛です。戌吉です。
養老孟司さんの本で、ピンと印象に残った言葉です。いや、言葉自体はもちろん知っていましたが、その文脈の中で使われるからこそ印象に残るってあるじゃないですか??そういうやつです。
そもそも一日3食を食べるのが当たり前(まあ2食の人もいるかもしれませんが)になった現代では、3食を(嫌でも)食べたほうがいい、食べなければならないという風潮や啓発があったりします。
腹がそんなに減っていなくても食べる。こういうことを続けていると、「食べる」という行為自体そもそもなんなのか分からなくなってきます(僕だけ?)。
そうは思わなくても、美食に走るという流行は、少なくともそういう背景を孕んでいるような気がします。
「食べる」目的
そんなこんなで何を考えたかというと、
「食べる」という行為が
消費したエネルギーを補給するためにあるのか、
それとも
次の行動のためのエネルギーを補給するためにあるのか
ということが気になったからです。
何考えてんだということですが、僕には気になる疑問でした。ほんとうは、そんなことはどっちでもいいんでしょうが、知的欲求というか、頭は理解したいみたいです。
理解なんて言っても、結局のところは自分がどう思って「食べる」のがいいのかを、照合するという低俗的なやり方ですが、僕の場合は次のように考えるのがしっくりくる気がします。
戦にいくための原動力
戦(仕事)という人間活動をするために、食欲を満たす
まさに、「腹が減っては戦はできぬ」です。
満腹感を消費して、人間は人間活動をするんじゃないかと思うんです。
逆に「食べない」ということを考えれば、栄養が不足していって衰弱するだけです。次に何かをするという目的があるから、「食べる」。つまり、以前に消費したエネルギーの穴埋めをするために食べるのではなく、次の行動のために食べるんだと思います。
僕が考えている風に「腹が減っては戦はできぬ」を言い換えると、
「戦をするために腹を満たす」
というような感じでしょうか。
働くかー、さあメシ食って頑張るぞ!と短絡的にいけば話はいくぶん楽ですが、少なくともそこには次にある行動のために食べている部分があり、「食べる」意味はそこにあるんじゃないかと思います。
食べることは義務ではない
義務教育の時代から、いや、その前からもですが、私たちは食べるということを半ば強制されるように与えられてきました(いや本当はありがたい話なんですが・・・)。
ただ、食べる食べないということは、本来自分で決められるものです。全くお腹が空いてないのに、朝食を食べる理由などどこにありましょうか??それに、食べるということは、最もといっていいほど生活の中で大事なことです。今は、食べることが、美食という娯楽になっている風潮がうかがえますが、ただその波に流されているだけだと、大切な何かを見落としてしまうように思います。
食料が溢れかえっているこの時代に、「食べる」ことの意味を(まがいなりにも根本的に)考えるのは重要なことだと思ったり思わなかったりする今日この頃です。